昭和40年02月02日 夜の御理解
「おかげのあるもなきも、わがこころ」と、自分の心の次第によって、おかげを受けられる状態になったり、又はおかげが受けられなく成ったりするのですから、いかに自分の心の状態と云うものが、清められ深められしていかなければ、いけないかと云うことが分かります。例えば一つの物の見方でもです、一人の人はまあ例えてゆうなら真っ赤なカネ-ションなら、カネ-ションと云う花を見ますと致しましましょうか。
真っ赤な色を見ただけでも、その人が、例えば、結核なら結核でも患うておる人であったなら、血の固まりの様に連想するでしょうね。すぐ、いつも、その血を吐きゃせんだろうかと思うともん、ね、もしこれが、共産党の人だったら、赤旗を思い出すかも知れませんですたいね。少し色情的な人だったら、その色情的な思いを、奥さんの腰巻きども、思いだすかも知れませんたいね。内容なんです。
同じ赤なら、赤と云う色を見せてです、その人その人が、その思うこと、連想する事が、違ってくる。その思う事、そのこと事態が、おかげが定まるのですからね。いかに自分の心が、ほんなら、こげなふうに、いっちょ思おうと、思うちょっても、思うとることだから、思い直す事は出来ません。ね、そこに私は信心を、いよいよ深めていかなければならんなぁとゆうこと、実に微妙な物です。有難いな。一つの事を持って感じてるかと思うと、同じ事柄、あぁしてもはがいい事だなぁと、思うておるんですからね。
だから、はがいい事だなぁと思うておったら、もうおかげは受けられん、有難いなぁと思うたら、もうそれがおかげになる。ね、子供が悪戯をして、帰ってくる。もうこの人ばかりは、いつもゆうことを聞かんな着物んでも、何でも汚れてしもうてから、云うてから心を汚しておる。もう子供の着物のごとしてから母親の方が、心を汚しておる。これではおかげは受けられん。本当に健康なおかげを頂いておる印。
さっきから着替えさせたらもうこげん泥だらけになって、その健康であるおかげでですね、と、云うてから、その汚れておることだんじゃない、その子供の健康である事を、有難いと神様に御礼申し上げる様な心に、おかげが有るのですよ。だけどそん時にゆうて、そげなふうに思うとったってです、さあ心の内容がです状態がです、そうでしょうが、子供達がもう一生懸命とごえとる。はぁ喧しかうるさいとこう思うたり、本当にそれを見てから、神様に御礼申し上げるような時と、ありましょうが。
先程も、先生、今日も雪がいっぱい降っとりますよと、表も、駐車場も真っ白です。〔それから〕開けて見たら、なる程、駐車場は真っ白になっとります。この分で、降り続きよるなら、明日は、本当に、それこそ銀世界の、素晴らしい雪景色が見られるだろうとこう思う。障子開ければ銀世界、いわば、さぞや、満州は冷たかろう、その満州の冷たかろうと云う事だけを思う人、ね。やはり主人を、いわば、満州の戦野に出しておれば、そう思うのも当然なのですけどもです、ね。
私はそれを開けた途端、まあなんと云う神様のその働き、素晴らしい事だろうかと、ただそれだけでも胸がいっぱいするんです。私は駐車場が真っ白になってるのを見ただけで、そう云う思い、いっぱいで、御神前に、座らせて頂くから、御祈念が有難い、御祈念が出来るわけなんですよね。まあそれを、厳密に云うなら、どう云う事でしょうか。わきゃわからんけど、とにかく神様の、お手の鮮やかさ素晴らしい事。
人間の、例えば、んなら忠臣蔵なら忠臣蔵の撮影するとに、雪を降らせんならんと云うのに、大変な金を使わんならん。雪景色を作る為には、もう大変な金を、人それもほんのそこ一部分だけ1セット、1セットの中だけ、天地の親神様の働きと云うものはもう、それこそ見る限りの銀世界に、アッと云う間に、なさる事が出来るのですもんねぇ。それを厳密になると、降っておる雪の、一片、一片がですたい。
それこそ、顕微鏡で覗きますと、もう実に巧妙な物なんだそうですね。一つ一つがもう図案の様に、素晴らしいと云う事です。そう云う、神様のお手の鮮やかさ。私は、こう4、5日前から、丁度、2日間程ここへ座っておるのが、じゅつのうしてたまらんのです。足が化膿しょるんです。白うなって、けれども、そう云う、もうじゅつないのは2日間でした、3日目には痛みませんでした。もう4日目には何ともない。
今週なんか何ともないです。座っとっても見てみたところが、その膿みが出たわけでもないのに、いわばその化膿しておったのが、もう血に変わってしもうておることではないかと、もう白い所が無い、それかと出ておるわけでも無い。真っ白いのをです真っ赤な血にしてしまいなされる神様有難いじゃないですか。何処か中に、中に化膿疾患の病気であってもです、さあそれに対する所の治療によって、それを取り除いたり浄化したりする薬の働きも有るけれども、天地自然の働きはそんなもんじゃないです。
私の父がここの筑後軌道に勤めております時に、足を轢かれましてね、そして、久留米の病院へ入院、そしてこりゃぁもう、いよいよ化膿致しましてから、もう、足一本貰わなければならんというこう云う事になった。そこで、親戚会議をさせて頂きまして、せめて、兄弟だけでもよってからと云うことであった。いよいよ今日は、その切断する日であると、云うことになった。
もう母なんかは一生懸命、水ごりとって神様にお願いしたと言うことでございます。ところが、田川郡に居ります、父の姉に当たります人が、何か火急な用が出来て、今日は行かれんと、もう一日延ばせ、もう一日待ってくれと、電報が来た。さあ、それで、もう神様の御都合に違いないと、一生懸命、家族中がすがった。いよいよ、あくる日、あの姉が見えられて叔母が、私の為には、叔母です。見えられて、いよいよ執刀という事になった。お医者さんがですね、こう開け、開けられてびっくりされた。
昨日迄は、あんなに化膿しとったのが、もう真っ赤な血になってしもうておったと云うことです。こりゃぁ、足一本取り留めたとゆうて、お医者さんが、喜ばれたと云うことです。前の日うだったらどうでしょうね。なる程、跛(ちんば)にはなりましたけれどもです。おかげを頂いて、切断する事をせんですんだですよ。ね、神様の働きのその微妙さ不思議さ。ね、その、その事を、又、具体的にと云うか、こう、究命して行けば様々な働きがありましょう。
例えば、硝子戸を開けて、外が真っ白になっておる。その銀世界のその中にです。私が感じた事は、何と神様の働きの、素晴らしい事だと云うことだけだった。それを、なら具体的に云ったらです、本当にあの雪の一片一片がです。神様のお手を、煩わした物ばっかり、しかもアッと云う間に、もう、見渡す限り銀世界にされる程のお力と云う物が、そう云うお力に、いわば私共が、委ね縋る任せると云う事。
今日、お食事の時、丁度、福岡の徳久さんが見えた。丁度、たまたま、原さんが参り合わせて居られましたから、まあ、久し振りに、一緒お食事どもさせて頂きましょうと、一緒に、お食事させてもらって、その後でしたですね、私なにか話したんですね。今の、あの、善導寺の岸先生が、親教会の記念祭の為に、て、為にでしょうね、もう、それこその大変な修行をして居られます。
私は、本当に、とやかく人は言いますけれども、偉いなぁと思うですね。今日私善導寺に御参りさせて頂きましたら丁度、岸先生が向こうの方からやって来てるんですね。赤ちゃんをおんぶしながら、ねんねこを、いわばその校長さん迄勤められた人がですたい、ね。所謂孫をおんぶしてその事、その事を非常に大事にされますですね。私はもう本当にもうやっぱり、信心を地で云ってると感じがいたします。
いつも、岸先生の行動を見ておりますとですね、もう、例えば、自分に学校も辞められたと云うて、なら、息子のクリ-ニングを手伝う訳にもいかんもんだから、結局は、なら、爺さん役として、お婆さんなんか〔よくし〕しとられるでしょ。ですから、お爺さんが、孫の守りをしとられる。その孫の守りの仕方がです。実にその、見栄えとか、外聞とか、もう、とにかくその事を一生懸命信心でされる。
今日もねんねこを着てですね、丁度あの〔大坪さん食料販売店の薬店の所で〕私は、自動車でございましたけれども、本当なる程ね尊い姿だなぁと思うです。その事その事をですよ、はぁ、長さん迄さっちゃった人が、赤ちゃん守りどもしてから、ねんねこ布団着てから町の中を、と云う人も有りますよ中には。けども私はあそこが素晴らしい所だと思う。その事その事を、実意丁寧になして行かれるとゆう事です。
私岸先生の話しを確かにしたと、思うですけど最近もう、あの寒中にでも足袋を履かない修行をして居られるようです。いつも教会に出られるのに足袋を履いておられません。この頃から一日の共励会の時に、先生が発表して居られましたのに「最近、断食しよります」と。形の上ではそれがそのはぁこん位の事なら、2日3日はこりゃ簡単に出来るぞと、思うておったんですけれども、その晩御夢を頂いております。
その御夢が『水屋の中をですね、いや戸棚の中を、一生懸命開けて食べ物を掴んで食べておる夢を頂いた』ところが先生が感じられた事、はぁ本当に自分はこうして、その断食が、平気で出来ておるようにあるけど、心の底には食べたい、食べたいと言う、汚い心があるんだなぁと云うふうに、感じたといった意味の事を話しておりました。その事の、後だったんですね、何か、あの原さんが、古賀先生に「どんなもんでしょう古賀先生」と、何か質問をしておられました。
そしたら先生が、その今、私が話した事を、例にとって「そうですなぁ、その断食をさせて頂く、断食をさせていただくと云うことも尊い。けども断食をさせていただく、その課程においてです、分からして頂く断食そのものが表行なら、その間に感じる事が、心行じゃぁないでしょうかね」ってなかなか、いい事をゆうなと、私は感じたんです。横で聞かせてもらいよった。ね、いわば、断食は形の行、表行である。なる程、表行でもさせてもらわなければ、本当の深い心行は出来ない。
私の心の中にあるこんなに、こんなに汚い心があると云うのが、発見する事は出来ない。そして、その、心に取り組む事が、心行じゃぁないでしょうかねって、その古賀先生が説明して居られるのを聞いてですね、なる程、そうだなぁと。やはり、行をしなければ、出来るこっちゃぁない。神様に、しかも楽しゅうさしてもらわんにゃいけん。ね、そこに、物の見方、考え方が深こうなってくる、いわば、深こう、分からして頂けるような、そうした働きがあるのです。ね、
そこに、例えば、真っ赤なカ-ネイション見てですたい、信心の熱情を感じる人もあるだろう。血の固まりを、感じる人もあるだろう。共産党を連想される人があるだろう。そこにおかげの、なる程、赤と云う、その一つを見ただけでもです、おかげの受けられる思い方の出来る人、出来ない人、例えば、汚い物を見てでもです、はぁ汚い物を見た。もう身が、身が切られた。前のほうで見らな良かったと云う人と、片一方の人は、同じ、汚い物を見ても、してもです、その事が、有難い物であると云うようにです。
御の字が付いておると云うような事であったらです。それは、尊い事になるんですから。信心はだからそこの所を、稽古してゆくと云うことなんです。ね、その為に私共、しっかり表行させてもらわなきゃぁいけん。どんなに、汚い物を見ましても、汚い事をさせて頂いても、それが、有難いと頂ける所の、信心をです。その有難いと感じられることが、おかげの元になるのですからね。
そこに岸先生の、それじゃないですけども、やはり、断食の一つでもしてみろうかと、修行でも、させて頂こうかと云う所に、自分の心の深い、例えば、有難いと思う、思おうと思うても思えない所に、それに気を付かせてもらう。なる程、自分はそう汚くはないと思うとったけれども、そう云う汚い心が、世の中に現れているように、汚い心があるんだと、気が付いた時に、その汚い心に取り組んで、修行させてもらう。そこに汚い心が取り払われて行くようなです、おかげを頂かせてもらうから。
いわば、人の真似の出来ないような有難い事が思えるようになるのではないでしょうか、ね、真っ白い、いわば、その、化膿しておる膿みがです、真っ赤な血になるようなおかげに、又、なってくるようなおかげもそこん所に、頂けるのではないでしょうかね。信心さして頂いてです、本当に、自分の心が有難い方へ、有難い方へ、有難い事へ、有難い事へと、この思えていけれる、思わんならんのじゃない、思えていけれるおかげを頂く為に、やはり、修行が必要だと云う事になるですね。
おかげ頂かなきゃいけません。